「玄関風呂」(尾崎一雄)

つくり話ではなく、実際にあったこと

「玄関風呂」(尾崎一雄)
(「日本文学100年の名作第3巻」)
 新潮文庫

ある日、妻が三円よこせという。
そのわけを尋ねると、
風呂桶を買うのだという。
翌日それを買ったはいいが、
その設置場所を思案した結果、
とりあえず
玄関に置くことになった。
つまり玄関で風呂を
立てることとなったのである…。

玄関にバスタブを設置している
賃貸物件について
TVで見たことがあります。
間取りの面積上、
効率的なのだそうですが、
一体そんなもの
誰が借りるのだろうと思ったら、
意外と人気があるのだとか(安いため)。
確かに一人暮らしで来客が
来ないであろうことを想定するなら、
問題ないのかも知れません。

さて、こちらは昭和初期、
それも一軒家の「玄関風呂」です。
当然、入浴中に訪問客があると
大変な事態になります。
なにせ玄関ですから。
「玄関を開けたら
入浴していました」では、
客も家人も驚愕の事態です。

そこで、
「私が二つの男の児を
 洗ってやることにした。
 その間、家内は自家の外の
 路地のところで、
 女の子と遊んでいた。
 訪客の見張り役なのだ。
 代って、
 家内が女の児と一緒に入った。
 私は男の児と路地のところで
 駆けっこなどしていた。」

しかも自宅は借家。
大家に見つかると大変なので、
風呂を立てる日と
これまでどおり銭湯に行く日を
分けて感づかれないような工夫をする。
涙ぐましい努力です。

やがて気候が暖かくなり、
風呂桶は庭先に置くことになります。
それとて
現代の感覚からすれば異様です。
やはり夜中に入浴していると、
巡回中の警察官に「歌はいけないよ、
もうそろそろ二時だぜ君」と
注意を受ける始末です。

ところで本作品は私小説です。
しかしいくらなんでも
作者・尾崎一雄の家庭内で、
このような珍事件が
本当にあったのかどうか
疑わしいところです。
そう思って読み進めると、
終盤にこんな記述があります。
「『うちでは玄関で
 風呂をたてているよ』
 ある時井伏鱒二に
 そう云ったことがある。
 すると彼は目を丸くして。
 『君とこの玄関は、随分
 たてつけがいいんだね』と云った。
 これには、
 こっちがまた目を丸くした。」

井伏鱒二まで
登場させているのですから、
この一件はつくり話ではなく、
実際にあったことなのだと
考えられます(たぶん、
相当盛った話だとは思うのですが)。

こんな明るい愉悦に満ちた小説が
発表されたのは昭和十二年。
戦争の足音がひたひたと
迫ってきた時代です。
そんな中でも明るさを失わなかった
作家・尾崎一雄。
もっといろいろな作品に
接したいと思いました。

(2021.2.14)

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